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雨情が選んだ終焉の地・羽黒山麓

磯原の海辺に生まれて

明保地区 雨情旧居明保地区 雨情旧居雨情旧居

 野口雨情は明治15年(1882)5月29日、北茨城市磯原に生まれた。名は英吉。15歳で上京し、東京教学院、東京専門学校(早稲田大学の前身)と進み、20歳で同校を中退して短編小説やおとぎ話を発表するようになった。
 明治37年(1904)22歳のとき父の死去で帰郷し、11月に栃木県さくら市(旧喜連川町)の高塩ひろと結婚した。その後、樺太に渡った後上京し、詩を『早稲田文学』に発表。同40年7月北海道に渡り、新聞記者をして石川啄木と知り合う。再び上京したが、母の死去で郷里に帰り、植林、山林管理に当たった。
 ひろ夫人は北海道で記者生活を送る雨情とともに、幼子を連れて札幌、小樽、室蘭、旭川と歩いたが、野口家の存続を案じて財産の一部を自分名義にして、由緒と伝統のある家名と財産を守った。
 野口家は楠氏の流れを汲んだ名家で、代々勤王の志厚い家柄とされ、磯原の大地主であった。その家は、水戸光圀公から「観海亭」と名づけられた屋敷でもあった。
しかし、大正4年(1915)5月33歳のとき協議離婚、雨情はいわき市湯本温泉の旅館柏屋に身を寄せる。ひろ夫人は2人の子を残して喜連川に戻るが、同8年には長男と2女(長女は小樽で生まれてすぐに死亡)の母として再び野口家に入った。
 大正7年10月、37歳になった雨情は湯本温泉を後に水戸に出て、旅館対紅館に住んだ。そこで対紅館の娘、中里つるさんを見そめて結婚した。

明保地区 雨情石碑明保地区 雨情石碑雨情旧居の石碑

 つる夫人は温厚な人柄で礼儀正しく、雨情が大詩人として飛躍できたのも、つる夫人の内助の功によるところが大きいといわれた。結婚した年に、『茨城少年』の編集に携わり、童謡欄を設けて自ら選者となり、また作品も発表する。このころ「船頭小唄」を作詞、中山晋平に作曲を依頼している。翌月には創刊の児童雑誌『金の船』に「鈴虫の鈴」を発表。
 同9年には『金の船』編集員となって上京、毎号童謡を書き、詩人として全盛期を迎える。

平和な世を知ることなく

 羽黒山麓の居宅では、よく縁側で外を見ながら物思いにふけっていることがあった。つる夫人が「何を思っているんですか」と聞いても、「うん、ちょっと考えているだけだ」というだけで、何も言おうとはしなかったという。
 病気のために自然に体は弱まり、宇都宮の戦災も、日本の敗戦も知ることなく、昭和20年1月27日、64歳で静かにこの世を去った。
 死後ノートの隅に書かれていた未完の詩が遺稿となった。

空の真上の お天道さまよ
宿世来世を 教えておくれ
今日は現世で 昨日は宿世
明日は来世か お天道さまよ
遠い未来は 語るな言うな
明日という日を わしゃ知らぬ
昨日暮して 今日あるからにゃ
明日という日が ないじゃない
空の真上の お天道さまよ
宿世来世を 教えておくれ

雨情はすでに死の免れ難いのを知って、生と死について考え、宿世来世ということに思いを巡らしていたと思われる。しかし、心身ともに萎えて思考が続かず、ついにこの詩を完成することなく逝った。最後の1行は、つる夫人が詩としての体裁を整える意味で、最後に付け加えたものである。
鶴田での1年間に残された色紙や短冊は少ない。わずかに、この3作だけといわれている。

夜明け頃やら羽黒山あたり
朝の朝日がほのぼのと 雨情
国のほまれか靖国の
神とまつらる益荒夫は 雨情

 「国のほまれか…」は鶴田町の小松利克さん宅にある。小松さん宅は雨情旧居から南へ、当時では3軒目の「まちなみ景観賞」を受賞した家で、つる夫人は慣れない畑仕事などを教わりにしばしば訪れていた。雨情は、昭和19年9月に主人が中国で戦病死したのを聞き、自ら色紙に筆を取ってつる夫人に託し、お悔やみをした。

けふも畑に わしゃひとり 雨情

 つる夫人が、鶴田から吉祥寺へ引き揚げる際に、同じ組内だった小島延介さん宅に「お世話になった印」と置いていった短冊。(大根の)絵が添えてあるのは珍しい。
 雨情旧居を保存している稲毛登志一さん宅にも条幅があるが、これはこの地に来る以前の作。

遠い深山の年ふる松に
鶴は来て舞ひ来て遊ぶ雨情

明保地区 雨情詩碑明保地区 雨情詩碑雨情詩碑(もろこし畑)

 疎開先での療養ということで、この1年間に会った人たちはきわめて少ない。同じ組内だった前田亨さんの父、故一雄さんは、遺作展の際のパンフレットにこう書いている。
 私が戦地から帰還したのは昭和19年12月の中旬でした。今の三の沢西町会はその当時わずか18戸で、1隣組でした。
 大東亜戦争で3カ年ほど戦地にいて、幸い命長らえて無事帰還した私は、留守中世話になったお礼の挨拶に雨情宅を訪問しました。旧居の表の方に行ったところ、雨情さんは和服に丹前を羽織って、日当たりの良い縁側で日向ぼっこをしていました。私が留守中世話になった挨拶をしたところ、雨情さんは口をもごもご動かしているだけで言葉になりませんでした。そのうちに台所で炊事中だった奥さんが手を拭きながら出て来られて、代わって挨拶をされ、中風で口が思うようにならないということでした。私は型通りの挨拶で1軒ずつ回るので、せいぜい数分間の雨情さんとの対面でした。それから1カ月後に永眠されました。

寂しかった葬儀

 雨情の葬儀は、物資が極端に不足していた敗戦直前のことだっただけに大変であった。
 当時この辺りの風習として、組内に葬式が出来ると組長が組員を召集して、葬式の役割を決めていた。組長は、小島菊男氏で、自ら葬儀委員長を担当しながら采配をした。まだ、戦争が続いていたので物資が底をつき、東、西走しながら装具を調達しなければならなかった。棺桶を運ぶ荷車を探したり、棺の蓋をするのに釘もなく、縄で縛る始末であった。つる夫人は火葬場まで、組員の若い人の、パンクしそうな自転車の荷台に乗って行った。

明保地区 雨情石碑明保地区 雨情石碑雨情旧居の石碑

 当時は土葬が主流だったので、組内では初めての火葬ということで、てんてこ舞い、縄で縛られた棺には紋付羽織がかけられ、荷車により運ばれた。今泉町の興禅寺住職で歌人であった石川暮人氏が国民服にゲートル巻、防空頭巾姿で立会い、お経を読んで出棺したという。
 戦後の復興とともに世の中が落ち着くにつれ、組内の人たちは、「今ごろまで生きていれば、雨情さんの葬式は盛大にできたのに」と口々に述懐した。

〈雨情が選んだ終焉の地・羽黒山麓(明保コミュニティセンター発行)から転載〉



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