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明保地区の由来

 昭和48年度に開校した明保小学校は、前身である城山南小学校が同年で創立100周年に当たることから、100年前の名称である「明保舍」にちなんで名付けられた。当時のこの地域は、富士見地区のエリアであったが、明保小学校開校や西公民館・明保分館の設立の機に自治会や各種団体が一つの地区として、独立することになった。従って、小学校の名称を踏襲し、「明保地区」とした。

明保地区の沿革

地区の歴史

 明保地区周辺の歴史的な流れとして、史実に基づき主要な変遷を辿ってみた。
 明治18年、樺山資雄(すけお)が県令(翌年知事と改称)として赴任した際、十郎ヶ峰一帯を払下げて所有し、故郷より甥である前田直方が来て、これを管理した。明治末期には弁護士で代議士にもなった石田仁太郎がこの地を譲り受け、移住した。
 明治38年には陸軍射撃場が造られ、小銃の射撃訓練に使用された。
 昭和3年に日本レース倶楽部理事長であったS・アイザック氏が現JRA付近に土地を入手し、競走馬の生産牧場を創設した。
 昭和19年1月、詩人、野口雨情は、戦火を逃れて東京武蔵野市から羽黒山麓に疎開して来た。
 射撃場と十郎ヶ峰との間が造成され、陸軍のトラックの運転練習場が造られたが、完成間もなく終戦となり、開拓地となった。
 終戦、そして軍解体という事態により、旧軍人、軍属ら21人が戦前、軍用地[重隊(現作新学院)や野砲隊(現文星芸大附属高校と宇短大附属高校)の軍馬調練場や射撃場、自動車練習場等に入植し、駒生帰農組合を開設した。昭和23年に駒生開拓農業協同組合と組織が改められた。
 開拓当初は姿川村と城山村に分かれていたが、昭和27年4月1日付で城山村部分の人口58人、面積18.5haが姿川村に編入された。昭和30年、姿川村が宇都宮市に合併された。
 射撃場南側にあった軍用地(現駒生運動公園)は、駒生開拓農業協同組合の共同採草放牧地として払下げられたが、その後の酪農従事者の不在などからM不動産に売却され、宇都宮市はスポーツ振興のための野球場を開設することになり、この所用地を買収した。
 明保地区は其々に、三の沢西地域が従来からの農村が次世代へと続き、三の沢北地域が、第2次大戦後の開拓地開発による入植、羽黒台地域が昭和40年代の民間不動産業者による住宅開発と、異なった歴史があり、住民が住みついてきた。

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